ご挨拶にかえて

(2019年、2020年各作品展ご挨拶より)

 
 わたし達が生きるこの世界には、ありとあらゆるものが存在しています。目に見えるもの、見えないもの、それらすべてを知り尽くすことは誰にもできないでしょう。そこには地球を彩る自然があり、生きものの様々な営みがあり、喜びや苦しみ、悲しみや慈しみが交錯しています。清しく感じられる光景もあれば禍々しく思える事柄もあり、目や耳を通して心に入り込んでくるものは枚挙にいとまがありません。

一方でわたしは、地球上のすべてを知り、見つめている「まなざし」があるように感じることがあります。それは宙空に浮かび、世界のはじまりからずっと地球を見つめてきた「まなざし」です。道を示したり行いを咎めたりはしません。善も悪も判断せず、花のように光のように、ただ見つめているだけです。
その「まなざし」は、ある人にとっては「神」と呼ぶものかもしれません。また、ある人にとっては、古来から伝わるとされる、しきたりや祈りかもしれません。いずれにせよ、その「まなざし」を真の意味で受け止めた時わたし達は、自分の心と静かな対話を始めることになるのでしょう。そして、そこにまったく同じ「まなざし」を見つけるかもしれません。
この空間でひととき、「まなざし」との対話を味わっていただければ幸いです。  (2019年、『宙空のまなざし』展ご挨拶より)
 
昨年の個展で私は初めて、宙空に浮かぶ「まなざし」を題材にしました。世界の始まりからのすべてを眺め、善も悪も判断せず、花のように光のように、ただ私たちを見つめる「まなざし」。わたしにとっては、「恕(ゆる)し」や「憫(あわれ)み」、「恥を知る」といった顔をまとい、合わせ鏡として人間の中にも潜んでいると感じられるものです。
2020年からの世界は、未知とされるウイルスによって大きく揺さぶられ、暮らしには大きな変化が生じました。ただ、それにより改めて気づかされたことがありました。「何ごともなく過ごせた昨日」と同じように今日や明日を送れるなら、それは果報であること。この日々は、見えない経糸と緯糸で丁寧に編まれた、人々と自然の営為の賜物だということ。すべては流れ去り、移ろうけれど、「いま」という確かな一瞬は「永遠」と重なっていること。
「いま」の連なりを生き切ったあと、心はその故郷に戻るかもしれません。そして帰り着いた時には、心が経験したすべてを共有している、あの「まなざし」が迎えてくれるようにも思えるのです。  (2020年、『こころの棲み処 ~鏡の奥へ~』展ご挨拶より) 

 

 大岡亜紀